談志、逝く



 既に各種報道でご存知の通り、立川流家元、立川談志が亡くなった。享年75。
 その訃報に初めて触れた時は、とてもショックだった。しかし時間が経っても悲しいという感情はあまり湧いてこない。それよりは寂しい、寂寥の感ばかりが強まる。どこかでこの日が来ることを覚悟しており、それに直面した気持ちなのかもしれない。
 私にとって落語という芸能を知る切っ掛けを与えてくれたのが談志だったし、談志が落語の全てだった。落語が単なる滑稽な昔話ではないことに気づかせ、芸を通じて哲学や思想と言っていい深遠なる世界まで見せた唯一の人が談志だった。
 私の得意分野で例えるならば、ティーンエイジャーのちょっとした楽しみ、欲求不満の捌け口、言うなれば娯楽に過ぎなかったロックンロールを、世代を超えて人の生き方、考え方にまで影響を及ぼすものにしたビートルズに近いと思う。談志以前にそんな噺家がいただろうか。
 私とてその点をいきなり理解したわけではない。93年ごろにフジテレビで深夜に放送していた「落語のピン」という番組があり、これを見たのが最初の切っ掛け。今思えばかなり実験的な番組で、一席30分〜40分、時にはそれ以上ある談志の高座を、深夜とはいえCMによるカットも無く毎週見ることができた。その時録画したビデオは今でも持っていて、VHSなのですっかりクタクタになっているけれど、今でも時々見たりする。
 「落語とは人間の業の肯定である」とは談志の有名なテーゼだ。それを実践して見せる芸を、テレビを通じてではあったが、垣間見るにつけ、凄さを理解したのだった。
 と同時に実際の高座も見に行きたいと思っていたが、なかなか叶わず、初めて談志の高座を見たのは2002年だったから、ずい分と時間がかかったものだ。それ以前も何度かチケット入手を試みていたのだが、談志の公演は人気が高く、そうやすやすとは手に入らなかったのだ。それもそのはず、私が狙っていたのは特に人気の高い都心部での独演会ばかりで、目先を変えて八王子での独演会に手を出してみたらあっさり入手できたのだった。
 郊外ならチケットが手に入ることに気づいてからは、町田、立川、横浜などへ足を伸ばして見に行くようになった。都心の公演は相変わらず惨敗続きだったが、e+の先行抽選では座席を問わなければ結構当たることも分かり、有楽町のよみうりホールや、半蔵門国立演芸場など談志にとっての「ホーム」へも何度か行くことができた。ただ一番コアなファンが集結する国立演芸場の「ひとり会」は結局一度も行くことができなかったな。
 初めて見た八王子での独演会は、偶然にも五代目小さんが亡くなってから最初の独演会で、落語協会脱退の折に破門されていた談志は、師匠小さんの葬儀にも現れなかったことが報道された直後のことだった。まくらで小さんとは無関係な時事絡みの話を延々喋った後、「小さん師匠が死んだね」とぽつりとつぶやき、やおらバンダナを外し「今日は小さん師匠がやっていた通りにやる」と宣言して「三軒長屋」と「粗忽長屋」をかけたのだった。いずれも小さんが十八番としていた噺で、恐らくは若き日の談志が小さんに稽古をつけてもらった時のことを思い出しつつ演じたのであろう。マスコミで報道されるような尊大で頑固な談志のイメージとは真逆の、優しく繊細な人柄に触れるとともに、芸人談志の奥深さを知った瞬間だった。
 生の高座を見なければ談志は理解できないとまでは言わないが、実際の高座はテレビなどメディアを通じて見る高座とは一線を画していた。絶対放送できないような際どい話もバンバン出てくるし、まくらが長く、噺に入ってからもどんどん脱線するので、一席が1時間以上に及ぶこともしばしばだった。国際フォーラムでの公演の際、満員のホールCで高座に上がった談志は、開口一番に女性器の俗称を叫んだこともあった(笑)。
 これはただの自慢なのだが、談志自身が絶品だったと認めた2004年3月27日の町田市民ホールでの「居残り佐平次」や、芸能の神が舞い降りたと言われる伝説の2007年12月18日のよみうりホールでの「芝浜」も私は見ている。これらは『談志大全(上)』というDVDボックスで見ることもできるが、記憶が濁るような気がして私は見る気になれない。あの日実際の高座で触れた衝撃、迫力、会場の空気感までDVDに記録されているとは思えないのだ。
 初めて見たのが2002年なので、私が見ることができたのは60代〜70代の晩年期だけだ。2006年以降ぐらいは衰えが目立ち、見る度にやつれていっているのが客席からでも分かったから、なかなかに辛いものがあった。しかしその老醜を晒すことさえ、談志の場合はドキュメンタリーとして成立していた。立川談志という人間性を打ち出すことがひとつの芸であり、それが可能な選ばれし芸人だったのだと思う。
 8ヶ月の療養の末、2010年4月13日に高座へ復帰した談志は、その終演後の記者会見で引退宣言ととれる発言をしている。この日の模様は『談志が帰ってきた夜』というDVDで見ることができる。復帰は果たしたものの、談志落語として満足のいく芸はもうできないと悟ったのかも。実際、それ以降は落語会に出演しても、談志は漫談などの軽いトークしかやらなくなった。
 しかしある時から談志は方針を変更する。4月の復帰後、私が最初に見たのは11月24日のよみうりホールでの一門会。何とここで談志は「へっつい幽霊」を披露した。悪いね、また自慢ですよ。その直前の11月2日に久々の落語、「金玉医者」をかけたと知っていたので少しは期待していたのだが、本当に落語をやってくれるとは思っていなかった。その日、私がTwitterにポストした内容を拾ってみる。

 談志一門会@よみうりホールより帰宅。既に伝わっているだろうけど、家元が高座に上がるサプライズ。かなり長めの落語ちゃんちゃかちゃんに続いて、へっつい幽霊に入った時は震えた。
 4月に自らの体調不良から「もう落語はやらない」と宣言して以降の落語会では、まともな落語は弟子に任せ、漫談程度でお茶を濁していたから、もう家元の落語は聞けないものと思っていた。
 今日だって家元の声の調子は、往時に比べると足元にも及ばなかった。落語ができない不甲斐ない姿を見せるのも、ドキュメントとしての芸であって、それが許されるのが家元だ。でもへっつい幽霊を一席やり遂げたのは、何か期するものがあったのだろうなあ。
 前段のちゃんちゃかちゃんの中で、「芝浜」のエンディング部分を演じたところは、会場の空気が明らかに変わった。3年前のこの会場で見ることが出来た奇跡の芝浜を思い出させた瞬間だった。
 へっつい幽霊は基本をなぞる感じで、家元の好調時のテンションではなかった。あれが限界だったのかもしれない。以前の家元なら一席終えて緞帳が下がると、すぐに上げさせて反省やら言い訳やらをぶつのが恒例だったが、それは無し。不完全であることを熟知しつつ全力を出し切った結果だったのかと。

 古典落語は伝統的な型があって、それを忠実に再現するのが正当とされる評価の仕方がある。その型を習得した上で、「このままでは落語は能のような伝統芸能になる」と危惧したのが談志だった。伝統的なスタイルを知らずに滅茶苦茶やるのは論外として、形式だけを遵守して目の前にいる現代の客に伝わらない芸のどこが正当だと言ったのだ。その考えを具現化したのが談志落語であり、立川流の落語だった。
 しかしそれを実践するには、現代を生きている観客に対峙するだけのエネルギーを要する。噺の中にリアルタイムの皮膚感覚として分かる狂気や風刺を織り込む必要があるからだ。4月の時点で談志はその限界を感じていたのだろう。
 最近の報道によって、11月に談志の喉頭癌が再発していたことを知った。11月24日のよみうりホール、或いはその前に「金玉医者」を披露した11月2日のムーブ町屋公演の時には再発していた可能性が高い。自ら標榜した談志落語には及ばないことは承知の上、形式としての落語、噺の筋を聞かせる落語を見せておく必要もあると思っていたのではないかと思う。談志はそれほど伝統的な古典落語(この場合は談志の少年時代、即ち昭和20年代に聞いた落語)を愛していた。





 この動画は1980年に収録されたもの。ちょうど漫才ブームの頃だ。「漫才」を「MANZAI」と表記して、ツービート、B&B紳助竜介らを中心に若者の感覚に訴えた漫才が人気を博した時代。その時期に漫才に熱狂していた世代を寄席に集め、落語の魅力を知らしめようとする企画で収録されたものだと思われる。この動画の中で、談志は落語とは何かを非常に分かりやすく語っている。落語の理解、普及には誰よりも熱心だったことがよく分かる。
 私が見た11月24日のよみうりホール以降も、談志は何度かの落語会で高座に上がっている。私がその次に見たのは翌年、即ち今年の2月20日立川市アミューたちかわでの一門会だった。この時談志は「文楽がやっていた通りにやる」と言って「明烏」をかけた。多くの落語家が演じる有名な噺ではあるが、談志による「明烏」は後にも先にもこの時しか聞いたことが無い。この日もストーリーをなぞるに留め、伝承に特化した高座だった。まくらもほとんど無く、いきなり噺に入り、下げの後は普通に緞帳が下りただけだった。
 私が見た談志の高座はこれが最後。その直後の3月6日の川崎市麻生文化センターでの一門会が談志自身の最後の高座になってしまった。
 長々と書いてきて、やはり寂しさはつのるばかりだ。最重要人物を失った落語界はこれからどうなっていくのだろう。談志の弟子たちの高座も何度も見ているので、彼らは見事に談志落語を受け継いでいることは認めるが、それでも師匠談志を凌駕するほどの個性はまだ見出せない。談志はそれほど大きな存在だった。
 談志の最後の高座となった川崎市麻生文化センターで、来る12月8日、立川流一門会が開かれる。しかも最後の高座に同席した志らく、談笑も出演となれば、当然追悼色の強い会となることだろう。私は既にチケットを入手しており、はせ参じる所存。今を生きる芸である落語が談志亡き後も生き続けていることを確認したいと思う。談志の最後の演目は「長屋の花見」と「蜘蛛駕籠」だった。季節柄「長屋の花見」は無理としても、志らくか談笑のどちらかに「蜘蛛駕籠」をやってもらいたいなあ。