鴨田潤(a.k.a.イルリメ)『てんてんこまちが瞬かん速』



 地元書店にて昨日『てんてんこまちが瞬かん速』(ぴあ)を購入した。岐阜の実家へ引っ越してきて2ヶ月余り。レコード屋も映画館も無い、文化的に貧困な人口10万ほどの田舎の書店で手に取れるとは思っていなかったので驚いた。市内の3軒の書店に立ち寄り、内2軒に在庫があったので相当数配本されていることが分かる。因みに市内書店ではミュージックマガジンは一度も見かけたことがない。そう言えばTwitterでは話題の高木壮太の『プロ無職入門』は3軒とも置いていなかったな。


てんてんこまちが瞬かん速

てんてんこまちが瞬かん速

 寝る前に少し読もうと思ってページを開いたところ、冒頭からぐいぐいと引き込まれ、スピードとメリハリのある展開は、読んでいる途中でその流れを切ることをためらわせるに充分だった。気が付いたら深夜までかかって一気に読み終えていた。こんな体験は実に久しぶりだ。
 時は恐らく80年代の中ごろ。主人公は東京でも大阪でもない地方の中都市に暮らす女子高生の悦子。趣味のスケートボードを通じて同じ高校へ通う1年先輩の千代と翔子と出会うところから物語は始まる。悦子の前に開いた小さなドアは、さらに別の部屋へと通じていた。次のドアを開けた悦子はハード・コア・パンクに目覚め、やがて憧れだったはずのバンドの世界に自らが足を踏み入れ…。
 単純にストーリーが面白いのはもちろんのこと、登場人物の心象や時代背景が丁寧に描写され、空気感がリアルに伝わる。どこにでもありそうなスモール・サークル・オブ・フレンズが別のスモール・サークルと接近、共鳴してドラマが生まれるのは小説なのだから当たり前だが、「小説だから」とエクスキューズを必要とするような無理が生じていないのは著者、鴨田潤の成せる技だろう。
 例えば、主体性が無さそうで実はある悦子のキャラクターだったり、ハード・コア・パンクに入れ込みながらもそれ一辺倒ではなく、ジョージ・クリントンビーチ・ボーイズに触れた時に覚える新鮮な感動だったり、苦労してレコーディングしたレコードのプレスが上がってきた時の浮き足立つメンバーの表情だったり、ツアーの先々で起きる対バンド、対メンバー間の感情のもつれだったり、そうした描写は軽やかで瑞々しく、そして少し屈折した若者特有の感性を想起させ、荒唐無稽な絵空事ではないドラマとして転がっていく。
 青春小説、特に登場人物がパンク・バンドのメンバーともなれば、音楽的才能に恵まれた者は人格的に破綻しているとか、とかく過激でエキセントリックな人物が描かれがちだが、ここにはそうしたキャラクターが出てこない。バンドのメンバーは個性の違いはあれど、社会性を持った市井の人として描かれている。実は悦子はSF的な能力の持ち主なのだが、それすら許容できるリアリズムがある。むしろやばくて手に負えないのはライヴハウスのフロアで暴れる観客の中にいるのではないかと思わせるあたりまでリアルだ。
 この本を読みながら、私は昔雑誌で読んだ江川ほーじんの言葉を思い出していた。それは自分がステージに立つことを想像した時、ステージ上の自分を見ている人と、ステージから見える観客を見ている人の2種類がいる。プロのミュージシャンになれるのは後者だというもの。プロになれるかなれないかは置いておくとして、確かにその視点、発想は両者で180℃違う。『てんてんこまちが瞬かん速』は間違いなく後者の視点で書かれていると思う。
 実はあとがきで安田謙一も同様の指摘をしていて、わが意を得た思いだ。

先の妄想(注:ライヴハウスでの演奏中、アクシデントでドラマーが退席する。ヴォーカリストの「ドラム叩ける奴いるか?」の問い掛けに応え、ステージに上がった自分がスティックを握るというもの)で、私がイメージするのは、受け取ったスティックでカウントをはじめ……途中は省略して……、喝采の中、客席に帰っていくという図。鴨田は同じ妄想の中で、バンドと共にプレイして、グルーヴを生み出しているのだった。この差は大きい。決定的である。

 この小説は実際にミュージシャンとして活動する鴨田潤だからこそ実現した作品であり、音楽を通じて何かをしたいと考えている者への彼の愛あるまなざしを感じる。
 非常に映像を喚起する筆致でもあって、映画かテレビ・ドラマで映像化されないかと期待している。NHKの朝の連続テレビ小説で取り上げられたりすると最高だ。