終わりの季節



 いきなり秋めいた気候に驚き、細野晴臣の「終わりの季節」が聴きたくなる。この曲が入っている『HOSONO HOUSE』はレコードしか持ってないので、早速ラックを見回すが、一部のタイトルを除いてレコードは全然整理しておらず、案の定すぐには見つからない。30分近くかかってやっと見つけたそれは、オリジナル盤ではなく、81年に再発されたもので、しかも閉店したレンタル屋の放出品だ。確か500円ぐらいで手に入れたはず。
 細野さんのアルバムでは、何と言ってもトロピカル3部作の方に思い入れが強く、このアルバムはそれほど聴き込んだ記憶もない。そのため大変新鮮な気持ちで聴ける。この頃のティン・パン・アレーは案外粗い演奏をしていたんだなと思ったり。
 他にはアマゾンに注文してあったディランの新作アルバムが届いたので、それも聴く。
 爺さまが縁側で茶でも啜りながら作ったようなロックンロール。この場合注目すべきは「縁側で茶でも啜りながら」の部分ではなく、「ロックンロール」であるということだ。現在ディランは65歳なのだから、既に年寄り臭いのではなく、年寄りそのものであって、故に彼岸の領域に入った音になるのは当然のこと。それでもしなやかにロールしていることが素晴らしい。いくつになっても年相応のロックンロールは出来るのだと証明しているのである。
 この夏、行ってもいないのに大いに楽しませてくれたUDO MUSIC FESTIVALは、早くも伝説化するほど物笑いの種にされたのはご存知の通りだが、あの閑散ぶりの最大の原因はKISS、サンタナジェフ・ベックらヘッドライナー・クラスの出演者を喜ぶ中高年層が野外フェスの理念を理解していなかったことだと思う。何故ライヴを見るのに辺鄙な場所まで行かねばならないのか、彼らには分からなかったのだ。まあ富士スピードウェイとか泉大津フェニックスなんてそれほど辺鄙とは言えない所にあるのだが、街中のホールより遠くて不便な場所には違いない。
 必然性を感じない場所まではるばる出かけるような気力も体力も持ち合わせていないオサーン連中をメインの客層と見込んでいては、閑古鳥が鳴くのも当たり前。日本のオサーン達は音楽を楽しむことに、もう貪欲になれないのだろう。目の前に置かれたことを消化するのが精一杯で、しかもノスタルジーの範囲に止まることしか受け付けられない。富士スピードウェイですら遠くて行く気にならないなんて言っている。清志郎の言葉を借りるなら「レスポールが重たすぎたんだろ」といったところだ。そうはなりたくねーなー。
 UDOのフェスには当初ディランが出演するという噂も流れていたが、実現しなくて本当に良かったと思う。こういう爺さんは、懐メロショウではなく、ロックンロールを必要としている客の前で演奏してもらいたい。


ミック・ジャガー、酸素マスク使用疑惑を否定
 その一方でこんなニュースを目にすると、ミック・ジャガーの中の人も大変だなと思う。高校球児でさえ酸素カプセルに入っていることを公言しているご時世なのだから、63にもなる爺さんなら酸素マスクぐらい使うがいいじゃないか。何なら青汁のCMに出たり、ウコンの効用を嬉々として説明してくれたって、違和感を覚えないぞ。何故そこまで必死になって若さを強調しなければならないのか。
 ミックは超人で絶倫の芸風でここまで来てしまったので、今さら老いを露呈するわけにもいかないのだろう。でも綻びは隠せなくなってきていて、先日も喉の不調のためスペインでの公演を中止したばかりだ。いくらミックと言えども、今のペースでツアーを続けることが、相当な負担になっているのは明らか。
 必要以上に枯れるのも見苦しいが、必要以上に加齢に抵抗するのもやはり見苦しい。どちらも不自然だ。いい塩梅に年相応であり続けることが理想だなあ。ミックもディランの新作を聴いて、羨ましく思っているのではなかろうか。
 新作発売に伴うプロモーションの一環で、Google videoにてディランの貴重映像の数々が公開されている(こちら)。60年代の若き日の姿から、割と最近のものまで、各年代のディランを見ていると、いつだってディランはイノセントであったことに気付く。みうらじゅんが「自分の年と同じ頃のディランを聴こう」と言っていたのは、そうする意義があるからで、ディランの解釈として何とも納得できる。