Don't Talk to Me About Work



みなさん、さようなら。ブログ連載から降ります。

 かつて「出版業界原稿料の最低水準」と揶揄された『週刊K』(匿名希望)が創刊当時「原稿料4000円」を打ち出したとき、ライターたちは「ついにここまで来たか」と絶句、悶絶、昏倒したもんであります。「フリーライター=ビンボー」という図式は、こうした異様な低価格の原稿料によるところが大きい。
 おわかりでしょうか。AFPBBの原稿料はこの『週刊K』を4分の1以下も下回るという、これはもう、プリントメディアの常識がまったく通用しないパラダイム変換的低価格なのです。これでは執筆という労働への正当な対価としての「原稿料」と呼べるかどうかすら怪しい。「おこづかい」と言ったほうがいいのではありますまいか。

 「AFPBB」というフランスの通信社が運営するウェブマガジンに連載されていた烏賀陽弘道さんの音楽コラムより。執筆は毎週1回、3ヶ月更新の契約でスタートしたものの、契約を更新することなく、上記エントリーをもって連載は中止、その理由は原稿料の安さだという内容。
 音楽に関する文章を書いて原稿料をいただいている身として見過ごせない話題だが、このエントリーの中で触れられている「だいたい、400字詰め原稿用紙一枚あたりの価格で5000円が相場です」の部分は、少なくとも音楽専門誌に限って言えば有り得ない相場だ。一般誌とかファッション誌とか、ジャンルの違う雑誌でも音楽にページを割いていることは多く、そのような媒体への執筆の場合は「400字で5000円」ぐらいにはなるのかもしれないが、私は残念ながらそれらの媒体で仕事をしたことが無い。私の乏しい経験から言うと音楽専門誌の場合、400字に換算すると2000円ぐらいが相場ではないだろうか。ただし相場はあくまでも相場であって、これより安い仕事はいくらでもある。というか、私の場合は2000円もいただけるなら御の字だと思っていて、400字で1000円未満の仕事の方が多いぐらいだ。音楽専門誌の部数なんて高が知れていて、一般誌の数分の一から数十分の一しか売れていないのだから、原稿料が安いのも当たり前なのだ。
 烏賀陽氏に言わせれば『「おこづかい」と言ったほうがいい』対価で書いている私がやっていることは仕事ではないのだろうな。実際原稿料収入では全く生計は成り立たっていないのだから、プロではないわな。
 例えば「60年代後半のローリング・ストーンズアメリカ南部の音楽的関連について4000字で」などという依頼が来ると『ベガーズ・バンケット』や『レット・イット・ブリード』は当然のこととして、その前後の作品、さらにそれらに影響を及ぼしたと思われるザ・バンドデイヴ・メイスンレオン・ラッセルグラム・パーソンズらの諸作も聴き直さねばならない。ある程度は記憶があるにしても確認は必要だからだ。また過去に同様のテーマ、関連したテーマで書かれた雑誌記事や文献にだって当る。このテーマならざっと10冊以上は資料が見つかるだろう。同じことを書いていないかのチェックと、自分では気付かない考察を参考にするためである。参考資料の類は予め手元にあるものにしろ、新たに買い求めるものにしろ、身銭を切っているし、取り掛かりから納品まで、それだけに専念したとして2日もかかってしまえば、2万円の対価では赤字同然だ。実際にはそれ以外にもいろいろ用事を片付けながら取り掛かるので、私がこの依頼を受けたとするなら納品まで最低5〜6日は必要だと思う。仮に対価が1万円ぐらいにしかならない場合など、鼻血も出ないほどの大出血サービスということになってしまう。
 烏賀陽氏の別のエントリーでは次のような記述もある。

 そこで気付いたのは、彼ら(注:日本の自称音楽評論家)の大半が、レコード会社からもらったプレスキットや海外の新聞・雑誌記事など「いただきもの」を資料に記事を書いている、ということだった(洋楽が多かった)。独自の取材や資料収集をしていないのである。インターネットがあまり普及していなかった当時でも、海外の文献を買って読んだり、ニューヨーク・タイムズ紙のアート欄を検索しておいたりする程度のことはさほど難しくなかったのに、それさえしない。

 自己弁護も踏まえながら言わせていただければ、資料収集はまだしも、独自取材となるとそこまでの時間や費用を掛けることは現実的に不可能なのだ。原稿料で取材費がペイできないのだから。
 同じエントリーで烏賀陽氏自身、こうも付け加えている。

 ただし断っておくが、ぼくはそうした自称「音楽評論家」たちには同情的だった。彼らのほとんどは「音楽ファンあがり」で、資料収集やインタビューといったジャーナリストとしての基礎的な訓練を受けていないことがわかったからだ。

 音楽評論家というよりは、音楽ライターの肩書きを持つ人たちは音楽を聴くことが好きで、さらにそれについて文章を書くことが好きで、その延長として職業とした人がほとんどだから、ジャーナリストとしての自覚はあまり持っていないし、求められてもいない。当然訓練など受けていないし、受けようという発想自体無いのだと思う。それで事足りてしまう現実が好ましいとは思わないし、音楽以外の分野に積極的に関わるライターがほとんど存在しないことも問題には違いない。従って音楽ライターの文章的な質は概してお粗末なもので、ひどいのになるとてにをはすらおぼつかない「ライター」すらいるのも事実だ。所謂評論など展開できるメディアが皆無に等しく、提灯記事が書ければ充分というクライアントばかりでは無理もないのだが。
 烏賀陽氏のエントリーは今ネット上で大変な話題になっているので、特に音楽に関する原稿執筆のあり方について一考を促すことにはなったと思うが、ではだからと言って現在の音楽原稿を取り巻く構造が変化するかというと、残念ながらそんなことは起こらないだろう。ニーズの無いところにマーケットは生まれない原則がある以上、真っ当な音楽評論をお金を払ってでも読みたい人が圧倒的に少ない現実を考えると、音楽原稿への対価が上がることはないし、独自取材を重ねて鋭い評論を展開するライターが出てくることもない。
 また音楽産業が巨大化し、音楽そのものがそうした俎上に載ることを拒否していることも無関係ではなかろう。音楽は単なる消費財に過ぎず、芸術表現とはかけ離れたものになってきたことで、音楽ファン(?)と呼ばれる人までもが音楽についての評論を求めなくなった。彼らは音楽について書かれた文章は「データ情報だけあればいい」と言う種類のファン(?)であって、批評、評論など必要としていないのだ。音楽の聴かれ方がこのような方向へシフトした理由は、皮肉にも烏賀陽氏の著作、『Jポップとは何か―巨大化する音楽産業』(岩波新書)に詳しい。音楽、この場合はJポップに限定されるが、を扱う産業の変遷を社会学的に分析した内容で、大変面白いものだった。