頭振っても楽しくない/腰を振っても乗れない

初来日フライヤー



 先月末に発売されたTHE DIG No.44の見本誌が届いたので読む。
 表紙と第一特集はニルヴァーナだが、サブタイトルにもあるように特集記事の半分程は「グランジとは何だったのか」という部分にスポットが当てられている。グランジと呼ばれるジャンルのレコード、CDはもう何年も聴いていないが、あの当時は個人的にもどっぷりと浸かっていたので、色々と思い出すこともあり、懐かしく読める特集だった。
 往時を知る世代的特権を生かして昔話をすると、私が後にグランジと呼ばれる音楽に触れたのは1990年の終わりか91年の初めが最初だったと思う。その頃発売されたダイナソー・Jr.のシングル「Wagon」にノックアウトされたのだ。80年代後半の数年というのはロックは瀕死の状態で、まともなロック・バンドはヒット・チャートにほとんど登場しなくなっており、面白いレコードはヒップ・ホップやワールド・ミュージックに多かった。所謂ロックで面白かったのは専ら中古レコードで買える60〜70年代のものばかりで、当時まだ20歳前後だった私は、ロックに関しては実に年寄り臭いリスニング・ライフを送っていた。
 しかし89年ぐらいになるとストーン・ローゼズやハッピー・マンデイズ、インスパイラル・カーペッツといったマンチェもの、或いはライドとかペイル・セインツとかジーザス・ジョーンズとか、ハウス、サイケの意匠をまとったロックがイギリスから登場し、人生で初めて経験するオン・タイムのムーヴメントに俄かに浮き足立った。
 89年のストーン・ローゼズの来日公演は新幹線に乗って上京して見たほどだから、個人的にも盛り上がっていたはずだ。でも今考えると、当時の雰囲気に流されていた気がしないでもない。大風邪をひいたような気がしていても、実は微熱程度だったというような。89年はまだ学生で地方に住んでいたので、輸入盤は2〜3ヶ月に一度上京して新宿や渋谷のレコード屋へ行かねば手に入らなかったから、情報は圧倒的に遅く、量も少なかった。当然今みたいにネットも無いし。だから何となく盛り上がりつつも、雑誌でスカリーズ・ファッションを見て「変な格好だな」と思ったりしていた。
 それは至極当然の話で、あの頃イギリスから届いた新しいバンドの音はクラブ・カルチャーと密接なつながりがあり、日本の田舎に住んでいた身には今ひとつ実感が湧かなかったのだ。ストーン・ローゼズのライヴの時、メンバーでない人がステージでクネクネ踊っていて「あの人は何をしているのだろうか」と真剣に思ったのを覚えている。
 90年に就職のため上京後はいくらか情報にも通じるようになり、引き続きイギリスの新しいバンドをチェックする日々が続いていたが、やっぱり沸騰する手前だったように思う。確かにロックっぽいし、カッコイイけど、どうも対象に距離を感じてしまっていたのだ。
 休みの日には輸入盤屋を巡回しつつ、都会の暮らし(笑)にも慣れてきた頃、出合ったのが前述のダイナソー・Jr.の「Wagon」だ。これにはイギリスの諸バンドに感じていたような齟齬は一切無く、一発KOだった。うるさくて、荒んでいて、それでいて昔のロックのようなキャッチーな部分も感じられ、当時想像しうるロックの理想が全部詰まっていた。これだこれだ、本当に聴きたかったのはと、イギリスのシーンに対する関心は一気に薄れ、それからはアメリカ一辺倒。アメリカは国が広い分、イギリスのように局地的で内輪ノリなムーヴメントが起こり難く、日本のような外国のリスナーにまで訴える汎用性があったのだと思う。まだ一般のメディアにはあまり取り上げられていなかったけれど、輸入盤屋ではそこそこ注目されており、丹念に探していればアメリカのインディー・シーンに大変な鉱脈が潜んでいることに気付くのにそう時間はかからなかった。
 91年の前半ごろは「これからはアメリカだ、ダイナソーJr.は世界を制覇する!」と吹聴して回っていたので、周りからは狼少年呼ばわりもされた(笑)。91年6月に実現したダイナソーの初来日は当然見に行った。来日が実現したといっても当時はまだカルトな人気だったから、会場のクラブチッタにはそれこそしがみつくようにして聴いていたようなファンしか来ておらず、あの日の異様な盛り上がりは今でも生々しく思い出すことができる。2回目の来日からはあの雰囲気が感じられることは無かった。
 思えばその当時はまだグランジという言葉は、少なくとも日本では使われていなかったように思う。レコード屋の仕切り板には「ジャンク」或いは「ジャンク・ノイズ」と書かれていたような記憶があるし、ロッキンオン誌上ではやたらと「殺伐」という言葉で形容されていたはずだ。グランジがジャンル名として流通しだすのはやはりニルヴァーナのブレイク以降だろう。
 『Never Mind』がゲフィンから発売されたのが91年の秋ごろだったはず。当時「えー、ニルヴァーナがゲフィン?」と驚いたのを覚えているし、冬に入る頃にビルボードのアルバム・チャートで50位ぐらいに入ったのを見た時はもっと驚いた。その頃はアメリカのインディー・シーンに関していっぱしの半可通だったから、サブ・ポップ出身のバンドと言えばまずマッドハニーとサウンド・ガーデンが別格の存在で、ニルヴァーナはそれより格下だという認識があり、まさかニルヴァーナがメジャーでブレイクするとは思っていなかったのだ。サブ・ポップ系のバンドで個人的にも当時好きだったのはガレージ・パンクなマッドハニーで、ニルヴァーナハード・ロック色が強くてマッドハニーに比べると今ひとつの印象だった。『Never Mind』よりサブ・ポップから出た『Bleach』の方が好きだったぐらいだし。そういえば当事渋谷陽一さんはラジオ番組でニルヴァーナのことを「新しいヘヴィ・メタル」と呼んでいたなあ。その上ニルヴァーナのブレイク以後に登場したファッション・グランジのアグリー・キッド・ジョーをやたらと推しており、不遜にも私は「渋谷も終わったな」と思ったのだった。
 ご存知のように『Never Mind』は92年初頭に全米No.1の大ヒットとなり、直後の2月にニルヴァーナは初来日を果たす。レコード業界にとって書き入れ時である暮れから年始にかけての大ヒットであり、『Never Mind』が1位になった時その下にいたのはマイケル・ジャクソンの『Dangerous』、U2『Achthung Baby』、R.E.M.『Out of Time』などだったから、1位に重みがあった。世界を制覇したのはダイナソーでこそなかったものの、1年前私を狼少年呼ばわりした人も時代が変わったことを認めざるを得なかった。ただ今でも後悔しているのは、この時のニルヴァーナの来日公演を見ていないことだ。さすが全米No.1だけあって各方面から注目は集めていたものの、公演チケットが即日完売するほどではなかった。だから割と公演日ギリギリまで迷ってはいたのを覚えている。もちろん私は彼らが嫌いではなかったが、前述の通り他のバンドと比較するとそれほど思い入れもなかったし、確か金銭的な都合もつかなかったので迷った末、結局見に行かなかった。まあ、また来るだろうと思っていたし。
 ええ〜っと、何の話だっけ?こういう昔話になるといくらでも続けられるので、途中で目的や方向性を見失ってしまうなあ。ここに書いたことはもう15年以上前のことなので、私より若い、特にカート・コバーンの自殺以後にニルヴァーナを知った人などはあの当事の状況は知る由もないだろう。DIGが今回取り上げた「グランジとは何だったのか」というテーマと一部重なる部分はあるものの、私個人はDIGに書かれたことが全て正しいとは思わない。記憶する中での出来事といくらかのギャップを感じる考察もあるからだ。ただ何が真実であるかを追求するのは、意味があったり無かったりする。今となっては明らかに歴史上の出来事であって、今からニルヴァーナなりグランジなりを評価する上では何も全てを体験している必要は無いし、実際体験などできないのだからどうしようもない。時を経た上でなお残る評価とは、歴史的事実を超越した付加価値が見出された結果である場合も往々にしてある。音楽の評価に絶対的なものは存在せず、常に相対的なものでしかないのだから、かつて人気があっても今は見向きもされないものもあるし、その逆だって沢山の例がある。でも当事を生きていた者として、その特権を発揮できる数少ない機会としてこういうことを書いておいても良いかなと。
 もうひとつどうしても言っておきたいことがある。私が書いたキンクスの記事中(124ページ)、「ウェル・リスペクテッド・マン」の発売日が66年3月とあるのは、正しくは65年9月である。編集部に送った原稿にはちゃんと65年9月と書いておいたのに、編集者が勝手に変更していたのだ。何故このような誤った変更をしたのか、その原因も既に突き止めたがここでは書かない。一応次号で訂正を入れてもらうよう連絡はしておいた。