四寒一温

k_turner2006-02-16



 不順な天候のせいか、体調を崩し寝たり起きたり。この状態で外出するガッツが湧かず、予定していた試写会を飛ばす。すみません。来週か再来週の回には行かねば。
堀江被告「武部氏二男に3000万円」 衆院選直前、振り込み指示か
 民主党は良いネタを持ってくるねえ。明日はまた株式市場が荒れるぞ〜。
 当然のことながら自民党は全面的に否定。しばらく静観が必要か。
<お葬式>カメラ付き携帯で最期の顔パチリ 困惑派・理解派

 昨年7月、横浜市内の斎場。出棺前に花を詰め始めると、親族や友人5〜6人がカメラ付き携帯で故人の姿を撮り始めた。同市の葬儀デザイナー、出口明子さんにとっては初めて見る光景だった。故人と生前から付き合い「本人の意思を尊重した葬儀」をサポートしただけに「注意すべきか」と迷ったが、親族が何も言わなかったので黙っていた。翌月、私的に出席した葬儀でも同じ場面を見た。
 全国の葬儀社でつくる全国葬送支援協議会(総本部・東京都千代田区)の斎藤浩司理事長(34)は「月に1度は見ます」と話す。「中学生や高校生は『撮っていいの?』という雰囲気だが、30〜40代の人は当然のように撮影する」と話す。香川県三木町の三木・長尾葬斎組合「しずかの里」職員、長尾鉄夫さん(55)も「20〜30代の若い人が『記録に残す』という感じで撮る」と話す。
 出口さんは「人を悼む気持ちが荒廃しているのでは、と気になる。亡くなった方は死に顔なんて絶対に撮られたくないはず。撮影の可否まで遺言を取ることも検討しなければ」と困惑。斎藤さんも「カメラが身近になり気軽に撮るのだろうが、心の写真を撮っておく(脳裏に焼き付ける)のが一番」と話す。
 一方、長尾さんは「葬儀に対する考え方も時代とともに変化してきた。臓器移植が一般化し、遺体が神聖不可侵なものとの考えが薄くなったのでは」と理解を示す。
 メディア社会論に詳しい評論家・武田徹さんは「対象を撮影し、他者とともに確認しなければ“リアリティー”が感じられなくなっている。葬儀も焼香だけでは満足できず、故人との確かなつながりを持ちたいとの思いから撮影するのだろう」と分析。カメラ付き携帯などの普及で何でも撮影する風潮に加え、現代人の感覚や死生観の変容という社会背景を要因に挙げている。【稲田佳代】(毎日新聞) - 2月16日16時3分更新

 死体だろうが、排泄物だろうが、撮りたければ何でも撮れば良いと思う。葬式なんて残った者の自己満足のための儀式だ。ただ私は撮る気にはなれないだけ。死体を撮ったところで使い道が無いし…。携帯で撮影した死に顔がメールで送られてきてもどうすれば良いのか分からないし、ブログにアップされたのを見てしまっても困る。
 私は趣味で写真をやっていて、ここでも時々その写真を掲載しているけれど、写真を撮るということは何と恥ずかしいことなのだろうと毎度思う。それは被写体に関係なく。ある被写体に向かって、あるアングル、あるタイミングでシャッターを切る行為の全ては撮影者の意志に委ねられているのであって、何の考えもなく撮影された写真は存在しない。
 例えばライヴの写真ならば、このバンドはこういう編成で、こういうステージングで、こういうシチュエーションで演奏した、等などが分かるように撮る。音そのものは写真では残せないけれど、音が伝わるような写真を残すことが目的であり、究極的な目標だ。だからその前提として私が写真を撮るのは、写真を撮りたくなるような音を出しているバンドでなければならない。音そのものが琴線に触れないようなバンドだと、どうやって撮ればよいのかが分からないので、撮影できないのだ。単に記録することはできるけれど、そういうバンドの写真は現像してみても、あまり出来は良くなかったりする。
 という考えの下に日ごろから撮影しているので、葬儀の席で死体を撮影する気には全くなれないのだ。だからと言って上の記事にあるような「人を悼む気持ちが荒廃している」とか「遺体が神聖不可侵なものとの考えが薄くなった」とかは私の場合は全く関係ない。単に被写体として撮る気になれないだけだ。そうだなあ、もし葬儀の場で撮影する気になるとすれば、親族とかごく親しかった人に限られるが、死に顔はともかく、火葬場で焼かれた後に出てきた骨の状態は撮っておきたい気にはなるかもしれない。何度か経験があるが、ほんの1時間ぐらい前までは人間の姿だった者が骨だけになって出てきた時のリアリティには愕然とさせられるからだ。