◇ニューミュージックマガジン1975年12月号
 について昨日の続き。昨日は広告について触れ始めたら、それだけで終わってしまったけれど、今日は本文記事を取り上げる。昨日取り上げた各種の広告から読み取れるのはのどかで前時代的であるということだ。デザインやコピーも含めて、今の感覚では古いと感じ、滑稽ですらある。30年も前のものなので、至極当然のこととはいえ。
 本文記事にも概ねそれと同様のことは言える。私も音楽に関する文章を書いてお金をいただくことがある者として、大先輩に当たる方々に対して大変失礼ながら、今の雑誌ならば掲載されないだろうなあと思うような感想文、もしくは印象批評の範囲を出ない文章が散見される。
 この当時の音楽、特に洋楽に関する情報は、量にしても伝達スピードにしても今とは大きな隔たりがあったであろうことは想像に難くなく、従って乏しい情報から分析、批評するにあたって、どうしても想像、或いは妄想に基づく部分の比重が大きくならざるを得なかったのだろうし、それで許されていた時代だったのだ。
 それはある意味仕方の無いところかもしれない。少なくとも情報量の少なさを現代の感覚から非難するのはフェアではない。
 ただしそれを大目に見たとしても、作品の評価には首を傾げたくなる部分もある。例えばその月に発売される新譜で最も注目すべきタイトルとして取り上げられる「今月のレコード」のコーナーのトップを飾っているのはバック・ストリート・クローラーというバンドだ。今となっては知らない人の方が多いと思われるが、これはフリーのポール・コゾフが結成した新バンドである。評価は100点満点中91点。
 また中村とうよう先生による(!)ディープ・パープルの『カム・テイスト・ザ・バンド』の評では、リッチー・ブラックモア脱退後加入した新ギタリスト、トミー・ボーリンを「充分すぎるほど個性を発揮している」とし、「このギタリストの個性が前面に出ている限り、ぼくにとってパープルは好きなグループだ」と書いている。ご存知のようにトミー・ボーリンは元ジェイムス・ギャングのアメリカ人ギタリストで、ブリティッシュ・ハードの代表的存在であったパープルへの加入は賛否両論というか、否定的に捉えたファンの方が多かった。それにとうよう先生はこのアルバムの最大の特徴であるファンク路線については言及していない。トミー・ボーリンの「個性」という部分に内包されているのかもしれないが、音を聴いていない読者には伝わってはいないだろう。
 或いは湯川れい子先生によるポール・サイモンの『時の流れに』評では、内省的な内容であるこの作品を「しみじみとして、胸がキーンと痛んでくる」もので、「34歳の詩人、音楽家がギターをかかえて、誰に聞かせるでもない歌を唄ってるみたい」と表現していて、それはそうなのだろうけれど、ポール・サイモンのソロ・キャリアでも代表的なヒット曲になるタイトル曲や「恋人と別れる50の方法」について一言も触れず、アート・ガーファンクルフィービ・スノウとのデュエット曲にあえて言及しているのは惜しまれる。スティーヴ・ガッドボブ・ジェームストゥーツ・シールマンスマイケル・ブレッカーフュージョン系ミュージシャンが大挙参加しているのに、「ソウル系のスタジオ・ミュージシャンらしい」と基本的な確認ミスもある。
 これまた大先生を捕まえて大変失礼ながら、こうした記事からは滑稽とまでは言わないが、批評軸のゆらぎを感じ取ってしまうのだ。注目すべき方向を見ていないというか。
 作品の評価なんて発売時点で固まるはずがないし、30年後の今から見て瑕疵があったからと言って鬼の首でも取ったかのように言うのは後出しじゃんけんのようなもので、大人げない。お前の書いた文章を30年後に評価してやると言われれば、それだけはご勘弁をと私なら言いたくなる。
 ここで終わってしまうと単にあの大御所も30年前はこんなことを書いていたと揶揄するだけのものになってしまうが、私がここで本来書きたかったのはそういうことではない。75年という時代が実はその後の新しい時代へ向かう前の過渡期にあり、当時そのことに自覚的であったかどうかが、今価値ある記事として残る際だったのではないかと思ったのだ。
 それが顕著だったのが、この古本を購入する切っ掛けでもあった「パブ・ロック特集」のメイン記事である大貫憲章先生による「再びアングラ化したイギリスのロック」という文章。特集のリード部分はとうよう先生によるもので、「最近しばしばあちこちでお目にかかるが、いっこうにどういうものなのか、わからない」パブ・ロックに「どんなものなのか、できるだけ接近してみ」るとあり、それを受けてのもの。
 「確かに、今、イギリスのロック・シーンは長い低迷の時代のまっただ中にある。」で始まる6ページに及ぶこの長い記事は、パブ・ロックについて書かれた記事として、考察の的確さ、情報の正確さなど、今読んでも充分通用するものであることに驚かされる。
 冒頭の一文のように75年当時のイギリスのロック・シーンを「瀕死の白鳥」と形容し、そう思わない人は「ひとりとしていないはずだ」とまで言い切っている。それをオーバーだと思う人は「所詮ブリティッシュ・ロックの門外漢たる人」と切って捨ててもいる。それだけ強い停滞感を感じていたということだ。30年後の今から客観的に見てもそれは間違っていないように思う。だからこそ「今月のレコード」のトップがバック・ストリート・クローラーになったりするのである。
 そのような時代認識にあって、「最も興味深く、またブリティッシュ・ロックの未来へのひとつのブリッジとなるであろう出来事、それが、いわゆるパブ・ロック・ムーヴメントに他ならない」としている。何という先見の明!
 パブ・ロックそのものに対する定義も実に正確だ。「パブ・ロックとは文字通りイギリスならどんな田舎町にでもあるパブと称される酒場などで演奏活動を行なっているロック・バンドたちの音楽の総称である」まさしくその通り。さらに「ある特定の音楽スタイルを指す言葉ではない」とまで付け加えられている。75年当時の日本でここまで確かな認識を持った評論家が存在し、文章にしていたとは正直なところ思わなかった。
 ではパブ・ロックにはどのようなバンドがあるのかということで挙げられているのがブリンズリー・シュワルツに始まり、ココモ、キルバーン&ハイ・ローズ、チリ・ウィリー&レッド・ホット・ペッパーズ、カーサル・フライヤーズ、エース、ダックス・デラックス、ゴンザレスと続く。それぞれの音楽性の特徴も極めて正確に紹介されているのは驚くばかりだ。何しろ当時日本盤が発売されていたのはブリンズリーズとチリ・ウィリぐらいのものだろう。それ以外は輸入盤でしか聴けなかったはずだが、そもそもイギリスでもメジャーとは呼べない存在だったこれらのバンドのレコードが、当時日本でそれほど流通していたとは思えない。
 さらに前記バンドとは一線を画す存在として「是非とも紹介せねばならないバンド」がドクター・フィールグッドであるとして、1/2ページほどを使って大々的に取り上げている。「現在のブリティッシュ・ロック・シーンに、大きな希望の光を投じた」と表現しており、フィールグッズの重要性に対する嗅覚の鋭さも見事としか言い様がない。
 これだけならイギリスの音楽新聞を熱心に読み、日本にも入荷した数少ないレコードをチェックしていれば書けたかもしれない。しかし、大貫憲章先生が偉大なのは、情報として押さえるだけでなく、パブ・ロックとは何であり、いかに重要なムーヴメントであるかを語ると同時に、後に続いたパンクの登場すら予見したかのような文章で、この記事を締め括っていることだ。少し長いけれど、惚れ惚れするほど見事なので引用。

一体、今バンドとしてテクニックとかサウンドだとかの以前の存在感、リアリティーの次元で、真に個性的で魅力的なバンドがどれだけあろう。みんな同じじゃないか。テクや音楽性がどうのこうのなんて、クソくらえだ。ザ・フーのデビュー時のセンセーション、あの身体中の血が逆流するような、「ウオーッ」と叫び出したくなるような衝動にかりたてるあの得体の知れない緊迫感は、一体どこに行ったんだ。(中略)
ぼくらがロックに求めるのは一体何なんだ。連帯感か、心の安息か。確かにそれもあるだろう。けれど、そんなのはロックじゃなくたって求められる。ロックにしか求められないのは、一切のプロセスを度外視した衝動ってものじゃないだろうか。
(中略)今、ニューヨークでは、テレヴィジョンとかラモンズ(原文ママ)とかウェイン・カウンティとかハートブレイカー(原文ママ)とかの、60年代中期のブリティッシュ・ビートや初期のベルベット・アンダーグラウンドをイメージさせるバンドが人気を集めているけど、そうしたグループを紹介するイギリスの新聞は、必ずフィ−ルグッズを引き合いに出して、こうした連中が、イメージを触発すると指摘し、新しい世代による新しいビート感覚の誕生を告げている。そしてぼくは、フィールグッズのようなバンドが、イギリスのロック・シーンの底辺を支えて来たパブという ”場”から生まれたのは、単なる偶然ではないと信じている。

 あの、もしかして未来から来た人ですか?と尋ねたくなるほどに正確な状況認識だ。「新しいビート感覚」という言葉まで使われては、恐れ入りましたとひれ伏すしかない。くどいようだが、これは75年12月号に掲載された記事であって、ということはつまり11/20に発売されているはずだから、当時の印刷スケジュールから想像するに書かれたのは遅くとも10月下旬ごろだろう。この頃ジョー・ストラマーはまだ101ersというB級パブ・バンドをやっており、対バンで見たピストルズに衝撃を受けてクラッシュを結成するのは7ヶ月ほど後のことなのだ。ちょうどこの頃にロンドンの場末のパブでうだつの上がらないバンドをやっていたジョー・ストラマーが抱いていたと同じ種類のフラストレーションを大貫憲章も感じていたことになる。
 余談だが、比較として名前が挙がっているテレヴィジョンやラモーンズはこの時まだレコードデビューはしていない。そちらについても音楽的特徴まで把握していたのは特筆に価する。
 76〜77年にかけてパンク・ムーヴメントが猛威を振るった時に、それ以前から活躍していたブリティッシュ・ロックのビッグ・ネームたちは「途方に暮れた」人が多かった。ミュージシャンに限らず、評論家や一般のリスナーの中にも同様に対処し切れなかった人は少なからず存在したようだ。保守的な日本の音楽雑誌などは、ファッション誌や一般の新聞が「ロンドンの新風俗」としてパンクを取り上げたのを見て、あわてて誌面に反映させたほどだった。渋谷陽一でさえ、パンク以後しばらくは「パンクに乗り遅れた渋谷陽一」と自虐的なキャッチコピーを付けていたぐらいだ。本人に確かめたわけではないが、大貫先生にあっては「してやったり」だったことだろう。近年は評論家としてよりも、DJやイベント・オーガイナイザーとしてクレジットされているのを目にする機会が多いのは残念だ。
 今年はやたらと「30周年記念盤」がリリースされる年だ。それはつまり75年にエポックメイキングな作品が数多く発表されたことを意味する。75年とは新しい動きが芽吹いた年であり、その動きをいかに察知していたかで後の音楽との関わり方も変わったことだろう。30年前のニューミュージックマガジンからは、その痕跡が読み取れる。