就業後、パルコ・ミュージアムへ。ぼやぼやしていたら「パティ・スミス展」は今日が最終だった。60年代末にニューヨークへ出てきたころから現在までのドローイング作品や割と最近始めたらしい写真など、ミュージシャン、詩人以外の部分の芸術家パティ・スミスの作品展である。パティが昔からドローイングを手がけていたのは知っていたが、大半の作品は初めて見るものだった。またポラロイドを使ったモノクロ写真の作品も全く未知のものばかり。思うところはいろいろあった。例えば「キリストが死んだのは誰かの罪のせいで私のせいじゃない」などキリスト教に対する冒涜に近いアンチの姿勢を明確に打ち出すことが70年代のパティの音楽の重要な構成要素であったのは周知の事実であり、特に欧米人にとってはそれが反モラルと同義であったためにショッキングでありスキャンダラスであったわけだが、その方向性は音楽以外の表現(ドローイングなど)においても基本的には同じであって、パティが手段を問わず表現する内容は一貫していることが分かったのがまず一点。もうひとつ印象深かったのはパティの宗教観の変遷とパティ個人におけるキリスト教の存在の大きさについて。60年代末から70年代初めの諸作(数は多くない)から感じられたのはそのどぎつい色使いやエロチックなモチーフに象徴されるように、やはりモラルに対する反抗的な姿勢が伺えたが、近年の作品にはそうした傾向は希薄で、色使いにしても構図にしてもむしろ穏やかさを感じさせ、いわゆる宗教画に近づいているかのように思えたのは面白い。デッサンの点でも、昔の作品は輪郭もわりとはっきりしていてどこか絵本の挿絵風なのに対し、近作は印象派を思わせる淡い線が主体であり、作風にはっきりとした変化がある。この変化は年齢からくる心境の変化を反映したものであるのは想像に難くないが、決して悔い改めたというものでもないのは、例えばキリストが十字架に磔となり昇天していく構図でエクスタシーを表現していることからも分かる。ただし、自宅の数ブロック先で起きたという9・11のテロ事件をきっかけに製作に取り組んだ崩れかけの貿易センタービルの写真をシルクスクリーンにした連作に見られたのは、それをテーマとした制作が祈りもしくは修行と同じ行為であったことが伺われたことで、キリスト教とは違うものとはいえ、パティにとって表現は宗教的行為になっているのだなあと。それでいて十字架やキリストは今でも作品にモチーフとして登場するところを見ると、存在としてのキリスト教はパティにとって、というか多くのアメリカ人がそうなのだろうが、動かし難い位置にあるのだろう。アンチ・ジャイアンツがジャイアンツに詳しいのに似てるか。卑近な例を挙げるとすると。


会場ではパティが過去出版した著作物の展示もあって、ガラスケースに入れられた「Witt」「Seventh Heaven」(後者は復刻版っぽかった)の現物をまじまじと見つめながら「これ売ってくれないかなあ」などと不埒な考えがよぎる。コレクター体質って困ったものですね。「Whool Gathering」というミニチュア本は展示品より私が所有しているものの方がコンディションが良かったのでちょっと嬉しかった。本当にコレクター体質って困ったものですね。


さらに先日この会場で行われたアコースティックライヴの模様がビデオで上映されていた。モニターは小さいし音声も絞ってあってよく聴き取れないしで、鑑賞に堪えうるレベルの代物ではなかったが、雰囲気は伝わってきた。オリヴァー・レイのギターをバックにパティが詩の朗読と歌を聴かせるといったもので、その前にブリッツで行われた単独公演とは打って変わってリラックスムードが漂っていた。キャパが200人ほどしかない中でのパフォーマンスで、パティは客に話し掛けたり、合唱を促したり、ファンとの交流を楽しんでいるようだった。10分ほどモニターを覗き込んでいた間に流れたのは、朗読(何の詩を読んでいるのかは聞き取れず)、「Dancing Barefoot」「Because The Nigt」。家庭用VTRで撮影されたこれは展示が終わったらどうなるんだろう。流出しないかなと考えるコレクター体質って(以下略)。


物販に並んでいた展示カタログは売り切れていたので買えず。ヒステリック・グラマーの限定Tシャツは8800円もするので手が出せず。ポラロイド写真の作品集「Cross Section」を1冊購入して帰宅。