NO NUKES MORE HEARTS ストップ再処理 パーティー&パレード@日比谷野外音楽堂



 予告通り行ってきた。このイベントについては言いたいことが山ほどあるような、全く無いような、今もまだ考えがまとまっていない。腰を据えて記録しておきたいところなのだが、残念ながら仕事の状況がそれだけの時間を与えてくれない。これを書いているのは20日の午前0時過ぎ。帰宅したのは日付が変わる15分ほど前だ。明日というか、今日も朝6時には起きて出勤しなければならない身の上。こんな感じがまだ数日続きそうなので、レポートはしばらく保留せざるを得ない。17日のライヴの写真も出来ているのだが、スキャンする時間が…。




【12/10追記】
 さて、いつまでも放置しておくわけにいかないのでいい加減片付けておく。既にこのイベントが終了して3週間余りが経過してしまったわけだが、レポートが遅れていた理由は上記の通り。忙しいことを言い訳にするのはみっともないことは分かっているつもりだが、もはや無理の利く歳でもないし、実際この間に2日ほど寝込んでしまうというトラブルにも見舞われた。「できることをやる」ためには「できないことはやらない」ことも重要なのだ。
 既に記憶も薄れかけているものの、思い出せる範囲で書いてみる。
 検索すると、このイベントに参加した方々のブログなどがいくつか見つかる。「きっこの日記」のあの方も来ていたようだ。ただ一通り目を通してみて、これらのレポートは決して冷静で客観的なものではないという印象。一番詳しく書かれたレポートが青山貞一氏によるものというのも、ちょっとなあ(笑)。この人は以前ニュースステーションにて「所沢産のホウレンソウにはダイオキシンが含まれている」と事実無根の情報を流し、多くの農家に多大な被害を与えた人物である。それだけに書かれている内容には胡散臭さがつきまとう。
 それ以外も基本的にイベントの趣旨に賛同し、核燃料再処理施設の停止を望む立場である方ばかりなので、当然と言えば当然とはいえ、被害妄想的な書き方になっている記事が散見される。私はこうしたヒステリックな意識こそが問題の理解を遠ざけている根源ではないかと考えており、なるべく事実に即して記しておきたい。
 まずこのイベントに興味を抱いた直接のきっかけは、9月に同じこの野音で開かれたUAのライヴにて映画「六ヶ所村ラプソディー」の鎌仲ひとみ監督から聞かされた「核燃料再処理施設が1日稼動するだけで、原発1年分の放射能が撒き散らされる」というショッキングな話だ。これを聞けば、誰だってとんでもないことだと思うだろう。ただし同時に事実なのかという疑問を抱かざるを得ない。常識から考えて、我が国の原発行政はそこまでアホなのかと。鵜呑みにするにはあまりにも無理を感じる。
 であるからこの件についてもっと知るべきだと考えたし、本来なら「六ヶ所村ラプソディー」をまず見たかったのだが、その機会は今もって得られていない。その代わりになるかもしれないとの期待を抱いてこの「NO NUKES MORE HEARTS」というイベントに出向いたというのが私の立場だ。つまり核燃料再処理施設に反対するというよりは、まず真実を知りたかったのだ。
 会場に到着したのは12時10分ぐらいだったか。スタートが12時だったので、少し遅刻。会場入り口前には見るからにプロ市民の方々が10人ほど待ち構えており、ビラを配っていた。その内ひとりから何の気なしに1枚のビラを受け取ると、他の方々も無言で群がってきて無理やりビラを押し付けられたのには閉口。書かれている内容が何かも確認することなく手にしたそれらは、後で見てみたらこのイベントとは無関係のものが半数以上あった。こういうことをしているから「プロ市民」なんて揶揄されるのに。このビラ撒き活動が、イベントの主催者に許可を得て行われていたものかどうかは不明。
 やや憤慨しつつ会場に入ると、あまりの閑散ぶりに拍子抜け。まだ始まって間もないとはいえ、全体で300人ぐらいしかいなかったのではないだろうか。とりあえずこの様子を写真に収めておこうと、会場の最後方からシャッターを切ったところ、関係者と思われる人が飛んで来て撮影は禁止だとのたまった。家を出る前に、HP上で撮影に関しては禁止である旨が書かれていないことを確認したからカメラを持参して来たのだが、「撮影自由」と書かれていたわけでもなく、一応その指示には従った。しかし閉鎖的なイベントなのだなと、不愉快には感じた。
 ステージではyaeという女性ミュージシャンがアコースティックな音楽を奏でていたが、適当な場所に着席したとほとんど同時に終了。続いて木原恵一というものまねタレントが司会として登場。シュワルツネッガーのものまねを披露していたが、まばらな観客の前で寒風を吹かせただけであった。その司会者から「ここにお越しの皆さんにはもう説明の必要は無いと思いますが…、核燃料再処理施設反対の声を上げていきましょう」と趣旨説明が。これを聞いてあららと。むしろ説明が聞きたくて来ている私などは蚊帳の外のイベントだったらしい。反対を表明するのはいいが、その理由を知りたいのに。
 その後いろいろな出し物が用意されていたが、エンターテイメントとして見るべきものがあったのは佐藤タイジのライヴぐらい。それ以外は申し訳ないけれど、人前でやるほどのものではなかった。それぞれのやり方で主張をするのは結構。何度も言うように、その考えに至った背景、理由が知りたいのだ。
 そういう意味ではここへ来る価値があったと思えたのは中西俊夫SUGIZOピーター・バラカンによる公開鼎談。もちろんそれぞれが核燃料再処理施設には反対の立場なのだが、六ヶ所の問題を知った切っ掛けから、この問題が抱える構造にまで言及していた点で現実的であり、傾聴すべきものだった。核燃料再処理施設を停止させ、原発の存続そのものを否定する限りにおいて、では代替エネルギーはどうすればいいのかという問題を無視することはできない。省エネが叫ばれて久しいが、電力需要は減っていないし、現在の日本の電力の3割は原子力発電に依存している現状があるのだから、省エネ程度のことで原発を停止に追い込むことは事実上不可能だ。仮に原発を全部止めてしまえば、毎日7時間以上電気が使えなくなることを考えれば分かる。
 その現実を認識した上で、バラカン氏は「経済成長が良いことだという考えを改めた方が良い」「不便になる覚悟、妥協はある程度必要」との趣旨の発言をしていた。結局行き着くところはそこになるのだろうな。文明を退化させることは不可能にしても、みんなでもっと貧乏になりましょうということだ。しかし全ての人間はバラカン氏のように賢いのだろうか。
 他にはSUGIZO氏が触れていた風土に合った暮らしを見直すべきという提案には納得できるものがあった。日本家屋は日本の気候を考慮して作られたものであり、高温多湿の夏でも比較的過ごし易いが、逆に鉄筋コンクリートの建物は熱がこもるため、冷房を使わなければならず、非合理的という主張だ。なお彼は来年1月に六ヶ所村をテーマにした書籍を出版するとのことである。本屋で見かけたら手に取るぐらいのことはするべきだと思った。
 趣旨とはずれるが、この鼎談の開始の際、司会進行役の女性が「今日のイベントは、関係者以外の撮影は禁止とさせていただいています」と発言したところ、すかさずバラカン氏が「いいんじゃないですか?もっと自由で」と口を挟む場面があった。日本はコンサートなどでも撮影するなとか録音するなとか、規制が厳しいけれどネットを開けばいくらでも見つかるし、事実上できないような規制は無意味だと続けた。これには会場からも拍手が。何でも一方的な掛け声通りに事が進むのであれば、深刻な問題は起こらない。現実を直視し、それを踏まえた方策を探ることが必要であるのは、六ヶ所の問題とて同じだ。物事に合理的に当たるべきであるというバラカン氏の発想に好感を抱いた一幕だった。
 この鼎談は20分程度で終わってしまい、私としては非常に物足らなかった。それ以外の出演者には疑問を感じるような発言が多かったのでなおさらだ。
 特に出演予定に名前が無かった福島瑞穂川田龍平が登場したのにはうんざりした。この2人は大嫌いなのだ。出演することが分かっていたら、私はこの日足を運ばなかったかも。話の内容は案の定どうでもいいことしか言っておらず、半分以上は自分たちの宣伝だった。そういうことは選挙運動中だけにしてもらいたいものだ。
 他にはマエキタミヤコというコピーライターの方と、A SEED JAPANの羽仁カンタ氏によるトークもどうかと思う内容だった。原発に代わる発電として地熱を推進すれば良いとの主張だったのだが、まるで地熱発電は何の問題も無いクリーンそのもののような言い方に終始した点は知識が足りないのか、それとも意図的に事実を捻じ曲げようとしたのか。日本は火山が沢山ある地熱大国であるにも関わらず、外国に比べて地熱利用が少ないとし、地熱発電が推進されないのは温泉地で観光産業に携わる人々の理解が得られないからだとすら言い放ったのだ。
 私は地熱発電についてそれほど知識は持ち合わせていなかったが、それほど単純なものなのかと、直感的に疑問を抱いた。帰宅してから調べてみたら思った通りで、他の発電方法より高コストで開発リスクが高く、大気汚染、地盤沈下、安定供給の困難さなど、問題はいくらでもある。にも関わらず、温泉地で観光収入に頼る人々が悪者かのように論じる姿勢には怒りすら覚える。1000000歩譲って地熱発電が推進されないのは温泉地での開発に理解が得られないことが理由であったとしても、そうした人々の暮らしはどうなっても良いと言うのだろうか。あまりにも想像力が欠如しているのではないだろうか。A SEED JAPANフジロックなどでよくお世話になっているボランティア団体であって、馴染みもあるが、そのトップがこんなに底の浅い見解を持っていることは残念だ。
 残りの出演者も核燃料再処理施設には反対である旨の主張を行うのみであって、核燃料再処理施設がどの程度危険なものなのかの検証を行ったかどうかは分からなかった。自分たちの主張は完全な善であり、電力会社や行政側は完全な悪という、極めて単純な二元論に終始していた。
 午後3時ごろ、ステージには最後の出演者であるFUNKISTというバンドの演奏が始まったあたりで、私は会場を後にした。この後は日比谷公園からスタートして、東京電力本社前を通り、八重洲口方面へ抜けるデモ行進が予定されていたが、少なくともそれに参加する気にはなれなかった。何故ならこのイベントは私の根本的な疑問は解決してくれなかったからだ。根拠もなく練り歩くより、早く帰宅して真実を調べ検証する必要があると思ったのだ。ナチスの集会場で「何故ユダヤ人がゲルマンより劣っていると言えるのか」と問うても、まともな答えは得られないであろう。それが分かったことは収穫だったかもしれない。結局自分で調べるしかないのだな。


 ということでこの3週間ほどは「原子力発電とはそもそも何ぞや」というレベルから調査、研究を続けている。何度も言うように時間的な余裕は余り無いため、なかなかはかどらないのは歯がゆいばかりだ。
 原子力発電についての基礎知識においては、山田克哉著「核兵器のしくみ」という本が平易な言葉で書かれており、化学の知識が乏しい私などにとっても分かりやすかった。

核兵器のしくみ (講談社現代新書)

核兵器のしくみ (講談社現代新書)

 ネット上で読めるものとしては、以下のリンクが有用と思われるので、興味のある向きはご一読をお勧め。今現在の私の知識をもってして、最も納得のできる内容。
六ヶ所村の核燃料再処理施設は必要か?(起)1/4
六ヶ所村の再処理施設の問題点(承)2/4
原子力政策は長期的な展望が出発点(転)3/4
六ヶ所村の再処理施設に関してできること(結)4/4
 以下は11月にネイキッドロフトで開かれたイベントのレポートを中心に、現状を公平な視点で綴ったもの。
青森・六ヶ所村核燃料再処理工場は必要なのか=「核燃料サイクル」は可能か(上)
青森・六ヶ所村核燃料再処理工場は必要なのか=放射能汚染反対の抑止力はマスコミへの企業広告(中)
青森・六ヶ所村核燃料再処理工場は必要なのか=市民運動方法論も一考すべき(下)