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 「自分探しの旅に出る」ために引退だってよ。生活に不安が無い人はのん気でうらやましい。
手塚治虫と時刻表
 生前に仕事で接する機会のあった方による証言。何と手塚治虫は時刻表というものを知らなかったらしい。
 マンガ以外のエッセイなどの執筆作品を読むにつけ、手塚治虫とは天才であると同時に常識人でもあると思っていただけに、信じ難い話ではあるが、天才ってどこか突き抜けた部分があるからなあ。案外本当なのかも。
コメント欄を設けないのは万死に値するブログ界最悪の罪
 コメント欄を設けないでブログを公開することの是非。私はそれが万死に値するとは思わないし、そうしたければそうすればいいと思うが、コメントを期待しない、トラックバックも拒否する姿勢でブログを公開していて面白いのかなという疑問はある。人目に晒す以上、何らかのリアクションが欲しいのは本音である、というかこんなもので報酬を得ようとは考えていないし、得られるとも思っていないので(たまに紹介したCDや本を手に取れるようアマゾンのアフィリエイトは埋め込んでるけどほとんど無反応)、リアクションこそがブログを公開している最大の動機だと私などは考えている。コメント欄を付けないでブログを書いている人が続けていくモチベーションは何だろうかと不思議には思う。上記エントリーには内容と関係ないアフィリエイトの広告がいくつか貼り付けてあるので、それを踏んでくれることが原動力になっているのかもしれないが。
 この日記も設置してそろそろ3年になることに我ながら驚くが、最初のころはそれ以前からオープンしていた掲示板に代わるものとして始めたのだった。2003年当時、既に掲示板というスタイルは風化し始めていて、開設している本人としても退屈に感じていたので、はてなダイアリーを知った時は渡りに船だと思い、乗り換えた。その当時はまだブログという概念を把握していたとは言い難かったが、掲示板よりはるかに風通しが良いことに気付くのにそれほど時間はかからなかった。後に知ることになるWeb2.0の用語で呼ばれる波がもろに押し寄せてきたことを肌で実感したものだ。
 どこかの誰かがネット上で書いたことに対するコメント、或いは逆にここで書いたことに対するどこかの誰かによる反応などが、シームレスに連動するダイナミズムは、ブログを公開している人ならば少なからず味わったことがあるはずだ。その反応は必ずしも歓迎すべきものばかりではないし、見当違いなことを書かれてうんざりしたこともハッキリ言えばあることはある。例えばコメント欄でも、こちらのミスをあげつらうためにしか出てこないどこの誰かも分からない人というのもいて、決して気分の良いものではないにしろ、そういう人はきっと得意顔で書き込んでいるのだろうから最低限顔は立ててあげようと思う。
 そういうレベルの低い話は置いておくにしても、ここに書いたことに対して真っ当な批判が寄せられると嬉しいなあと思うのだが、幸か不幸か記憶する限りそうしたものは今まであまり無かった。そもそもあまりまともなことは書いていないので、批判するのもバカバカしいと思われているのかもしれない。上記エントリーには「それどころかたった一つのコメントすら削除しないことが、フェアで潔くて清廉で勇猛で雄々しくて、クレバーでスマートでクールとされているのかも」などと書かれていて、私はそんなに大げさには考えていないが基本的には議論好きな性格なので、寄せられた批判に対しては真摯に答えたいと思っている。アクセス履歴を見ていると、時々この日記がmixiの日記にリンクを張られていることがあって、そこから来ている人を発見することがある。それは良いのだが、えてしてリンク元mixiダイアリーは一般に公開されていないため私は閲覧できず、どこの誰が何を書いているのか分からないことも度々あって、そういうのはさすがにガッカリしてしまう。陰口を言われているようで、コメント欄に頭のおかしいことを書かれるよりはるかに腹立たしい。何を言ってもいいけど、こちらに分かる場所で言って欲しいものだ。分からないところで言われても、反応のしようがない。
 最初の話に戻るが、コメント欄を設けずにブログを公開している人というのは議論が嫌い、或いは得意ではないのかもしれない。マイミクのみに公開した日記で、書いた本人に見られないことを前提にリンクを貼る人も多分同じだ。最近読んだ吉本隆明糸井重里の対談本というか、吉本隆明が一方的に喋ったものを、聞き手の糸井重里がまとめた「悪人正機」という本に書いてあったことで印象深かった部分があるので、少し長いが引用。

 例えば、僕はオウムのことを書いた時に、さんざん言われました。でも、オウムが殺人事件を犯した犯罪者だっていうことと、オウムという宗教と麻原っていう大将にどれくらいの宗教的力量があるかってことをちゃんと評価したうえで、何をしたかを考えてみることは別なんですね。でも、それを言っただけで、文句を言われる。フランスにいる知り合いには、文句を言われるなんてフランスじゃ考えられないって言われました。こういう見解は持っちゃいけないってことで排斥されるようなことは、日本独特とは言わないけれども、先進国ではないですよ、みたいなことも言われましたね。
 僕ら日本人っていうのは、過剰に気を遣いすぎる。だから、こう言っちゃ悪いんだ、みたいになっちゃうんですね。人それぞれ違う考えがあるっていう、相容れない者同士のルールってのが、できてないんじゃないかな。

 非常に納得できる話である。議論が嫌い、苦手という側面が日本人の多くに見られることは否定できない。島国的というか、歴史的、文化的に検証してみればそれなりの理由も見つかりそうだ。一億総ブロガー時代を迎えて、インタラクティヴなコミュニケーションの仕組みが形式的には出来上がった今、日本人の国民性に変化を及ぼす時期に来ているのかもしれないと思う。少なくともコメント欄を設けないということは、この流れに逆行しているとは言えるのではないかな。