エイミー・マン、3年ぶりの新作は日本先行リリース!
 ほお。日本でのエイミー・マンの評価ってどんなもんなんでしょう。私は実売とか知らないので想像の範囲を出ないのだけれど、「マグノリア」以降もアメリカほどブレイクしたという実感は湧かない。新作が1週間とはいえ日本先行での発売ということは、マーケットとしての日本をそれなりに意識しているのは間違いない。リンク先にもあるけど、ライヴが見たいね。来日公演が実現する程度には売れて欲しいものだ。
「パソコン通信」とは何だったのか

ニフティが2006年3月末でパソコン通信サービス「NIFTY-Serve」を終了するという。モデム接続によるテキストベースのサービスが終わるのは時代の変遷として致し方ないが、“あの時”のコミュニティのあり方には、今も学ぶべき点は色々あるのではないだろうか?

 パソコン通信の位置づけにやや紋切り型の印象も受けるものの、なかなか面白いコラム。

モデム接続によるテキストベースのサービスが終わることに関しては、インフラの変遷で致し方ないことだろう。だがニフティ最大の失敗は、せっかく構築されたコミュニティの崩壊を食い止める効果的な手を打たなかったことだ。

 前にも少し書いたことだが、私も96〜97年頃、パソコン通信の全盛〜衰退期に入る頃にはニフティに入り浸っていた。その当時のニフティはまだ活発な情報交換や議論が毎日やり取りされており、オンラインの遊び場としては当時のインターネット(日本語のサイトはまだ少なかったし、2ちゃんねるもブログも存在しなかった)よりも刺激的で楽しかった。その頃のパソ通でのコミュニケーションは参加者の数こそ今のネット人口よりはるかに少なかったものの、能動的で目的意識の高い人が多かった。それ故志を同じくする者の間では情報を共有すべく、個人的な研究成果が連日報告されたし、今のようにGoogleを使えば大抵何でも見つかるという時代ではなかったので非常に重宝した。と同時に労を惜しまぬ姿勢を皆がリスペクトしていたから、意識の低い「教えてくん」は総スカンを喰らったりもした。またコミュニケーションの場でもあったので、情報をやり取りする上での礼節は重んじられ、ちょっとした言葉尻から延々と続く論争に発展するなんてことはしょっちゅう起きた。それはこのコラムでも触れられている通りだ。
 そうした特異な世界だけに、敷居の高さを感じることが無かったとは言わない。また文章力、読解力を持たなければ着いて来れない部分もあり、パソ通住民の間でエリート意識が蔓延していたことも否定できないだろう。それでも今考えても面白い世界だったと思う。
 その後インターネットの方が手軽でテキスト以外の表現方法も容易になったこともあり、パソ通は衰退の一途を辿った。私も97年の後半頃からニフティにはあまりアクセスしなくなり、確か98年には全くアクセスしなくなってしまったはず。ネットに繋ぐということはインターネットにアクセスすることを意味するようになったのだ。しかしネット人口が爆発的に増加し、より多くの人と接触する機会が増えたはずなのに、パソ通時代ほど密度のあるやりとりをする機会はむしろ減っていったことにも気付いていた。当時無料で借りられる掲示板があちこちに立ち始めていたし、2ちゃんねるの前身とも言えるあめぞうが注目されるようになったのもこの頃だったはずだ。それらで見られた書き込みはパソ通時代のものとは毛色が違い、匿名であることをいいことに罵詈雑言が平気で書かれていたし、また文章力、読解力の無い人が多いことにも驚いたのを覚えている。個人的に最も記憶に残るのは、第1回目のフジロックが台風のため中止になった後のSMASH掲示板だ。中止直後から怒涛の書き込みが続いた(そういえばサーバーがよく飛んだものだ)のだが、大半は目を被いたくなるような内容で、収拾をつける気すら失せるものであり、建設的な議論とは程遠かった。ようやく落ち着きを取り戻し、まともな意見交換の場として機能するようになったのはフジロック中止から3ヶ月は経過していたと記憶する。あれは97年の夏だから、私がニフティとだんだん疎遠になってきた頃と一致する。そういえばニフティではフジロックの話題はあまり盛り上がらなかった。ニフティユーザーの平均年齢は30代だったはずなので、当時既にフジロックにはあまり縁の無かった人が多かったのかもしれない。
 話を戻して、パソ通とは違うインターネット上でのコミュニケーションの形に最初こそ戸惑ったものの、しばらくするとそれに慣れてしまったから恐ろしいものだ。その後2ちゃんねるが定着すると、パソ通時代のような「ネチケット」にうるさく言う人も見なくなったし、礼節などわきまえなくても全く気にならなくなった。それが良いことかどうかは判断が分かれるだろうが、時代の流れがそうであった以上、逆行することなどできないのは事実であった。
 このコラムではソーシャルネットワーキングサイトにパソ通時代との共通点を見出している。確かに招待制が前提であるため素性がある程度ばれている点でスタイルは近いかもしれない。私も昨年からmixiに登録して、今もほぼ毎日アクセスしているが、当初思っていたほどパソ通時代と同じ感覚、グルーヴは味わえていない。確か現在のmixi登録人口は40万人ほどで、その割にはコミュニティの数が多いのだが、活発に意見交換がされているところは驚くほど少ない。コミュニティだけ立ち上げて発言が全く無いなんてところすらあるぐらいだ。ひどいのになるとコミュニティを立ち上げた管理人がわざわざ「管理人は何もしませんがトピックは自由に立ててください」と断っているところまである。それでは盛り上がるはずがない。こうした傾向はパソ通にあった参加者の目的意識が欠落しているせいである。かと言ってだからSNSはダメなんだなどと言ったところで何も始まらない。あの頃の敷居の高さを再現しようとすること自体が不可能なのだから。
 mixiの40万人という登録者数は全盛時のニフティの数分の一だ。直接の知り合いだけが招待されるルールがあるため、登録者はある程度のステータスは感じているはずだが、それがコミュニケーションツールとしての目的意識につながっていない現状を見るにつけ、たとえニフティと同程度まで登録者数を伸ばしたところで、全盛時のニフティと同じような場所にはなり得ないと思う。むしろ登録者が増え続けることで、ステータス価値が下がるためより意識の低い集まりになる可能性の方が高いようにも思う。