輸入権創設を目論んだ改正著作権法案を成立させようと熱心に動いているのは、ほんの数人であると先日のシンポジウムでも川内議員が述べていた。実際に動いているのは数人だとしても、その背後にはRIAAというか、5大メジャーというか、極端な話アメリカという存在があって、そこが糸を引いているのだと思う。シンポジウムではその可能性を指摘した質問者もいた。日米租税条約の発効など状況証拠からの判断だが、私はそう見て間違いないと思っている。
アメリカという国は国全体が資本主義の権化のようなもので、儲けた奴が勝ちという価値観の下に国が成り立っているのだ。そもそもが移民によって作られた多民族国家である以上、民族的なアイデンティティは持ち合わせていないから、「自由の国」という曖昧なアイデンティティしか掲げることができず、その結果儲けた者が一番偉く、儲けるためには手段を選ばないことが当たり前となった。イラク戦争の例を引くまでもなく、過去アメリカが行ってきた歴史は全てその価値観で説明がついてしまう。悪の枢軸なんて言い回しはその価値観を正当化したからこそ出てくる言い分だ。
音楽という文化の前にあっても、その価値観が揺らがなかった結果が今回の輸入権創設やCCCDの導入に結びついているのだろう。東芝EMIの説明ではCCCD推進はアメリカ本社の意向だって言うし。消費者利益や文化の保護なんてアメリカ的価値観から見れば取るに足らないことなのだ。まさかこの期に及んで「レコード産業は文化事業である」なんて詭弁を信じている人などいないと思うが、だからと言って大資本のレコード会社の方針を批判したところで彼らが改心するなんてことはあり得ない。資本主義の中で企業活動を行っている以上、レコードを売るのも自動車や電化製品や、何でもいいけどモノを売る点では同列であるのだから。
著作権法改正案の可決成立はもう目前まで来ていて、出来ることならそれを阻止したいという考えであることはここで繰り返し表明している。そのための可能性があることなら時間の許す限り何だってするつもりでもいる。しかし万に一つの可能性が通じてこの法案を廃案に追い込むことができたとして、それで良かった、バンザイ文化が守られた、で終わることはできないという気がしている。一連の流れからして、あちらさんは別の方法でまた利益を上げる策を打ってくるだろう。それが消費者利益や文化を阻害するものであろうがなかろうが。
いつだったかここでも紹介したフガジのイアン・マッケイが言っていた通り、音楽は言葉より以前から存在するもので、レコード会社など設立されるずっと前から人類はそれを文化として共有してきた。だから輸入権が創設されたとしても音楽自体は死ぬことはないだろうが、ひとつだけはっきりしているのは現在の大手資本のレコード会社が製造、販売して音楽が供給されるというシステムはそろそろ見直されるべきだということ。常に拡大再生産を続けるのが資本主義なのだから、かつてのような音楽を愛する者によって運営される牧歌的なレコード産業の形態に戻るのは不可能だ。現在の(アメリカを中心とした)レコード産業はそこまで巨大化している。だとすれば、音楽を愛する作り手と聴き手を結ぶ別のシステムを築いていくしかないだろう。既存のシステムの中で文化を守ろうとする対処療法よりも、構造改革で文化を維持していく方が建設的だろう。
では具体的にはどうするのか、そこまではまだ考え付かないのが正直なところ。構造改革構造改革とお題目だけならべても具体的なヴィジョンが無ければどこかの総理大臣みたいだが、新たなシステムを築くには私個人ではまだ勉強不足であるのも間違いなく、もう少し時間をかけて考えたい。


とか何とか偉そうなことを言いながら、目の前にある原稿は全然できてないぞ、わし。更新はまたしばらく止まるでしょう。恐らくそうしている間に著作権法改正を阻止するためのある動きが明らかになることと思います。

◆追記
今までカウンターが異常に重かったので付け替えました。今度のははてな標準のやつで、リロードすると数字が上がってしまうのがちょっと嫌だけど。


◆追記の追記
とか言ってる側から更新してしまうが、それはこんなのを発見したから。
坂本龍一が輸入権問題に言及
その中でさらに私的に気になった箇所があったのだ。以下未承諾引用。

―――と、ここまで真面目に書いてきたが、実はぼくは2004年という年は「CD永眠の年」として記憶されると思っているのだ。もうCD自体がなくなろうとしている時に、CCCDでも輸入盤規制でもないだろう。もう手遅れだよ。

さっすが教授!私と同じこと考えてんじゃん。