NEIL YOUNG & CRAZY HORSE@日本武道館



60〜70年代の「ロックの幸福な時代」を実体験として持たない世代の私でも、その時代のロックがいかに当時の空気を反映した切実な存在であったのかは、いくらかの知識と想像力を動員することで充分にリアリティを感じることができる。「ロックは世界を変える」と半ば真剣に考えられていたことは、当時の社会背景と同時代に奏でられたロックを後追いで知った者にさえ「そうかもしれない」と思わせるぐらいだから、その時代の当事者達にはごく当たり前の感覚だったのだろう。それは稚拙な幻想でありロマンティックな錯覚であったことを後の歴史が証明してしまったが。

「ロックは死んだ」と言われて早四半世紀が経とうというのに、今なお幸福な時代のロックの幻影を追い求め、不器用が過ぎてカッコイイに転じさせる稀有な存在、それがニール・ヤングだ。一昨年のフジロック以来の来日となる今回のツアーは、伝え聞いていた通り最新作『GREENDALE』を中心とした内容で、第一部はその全曲を収録順に披露。架空の町 "GREENDALE" に住む人々に起こる出来事を綴った物語として展開するこの作品は、ストーリーを追うというよりは現代アメリカに対する痛烈な批判が込められたメッセージとしての長編詩に近い形式だ。それを表現するためにニールが選んだのは、大勢の登場人物を実際のステージに登場させることだった。ニールの家族やスタッフ、そして行く先々で現地調達したエキストラ達が舞台に現れ登場人物の役を演じ、歌詞通りの台詞を喋る。舞台の両袖には重要な場面に使われるセットが組み立てられ、中央後方にもスクリーンと連動させた各種セットが登場する仕組みになっていた。ニールとクレイジー・ホースの面々は舞台やや左寄りに陣取り、1曲毎に解説を加えた上で演奏するスタイル。

ミュージカルに近いスタイルそれ自体は特に目新しくもない。それに役者達はほとんどが素人であって、演技は学芸会のレベルを出ておらず、使われるセットもドリフのコント以下の以下にもチープな作りであることが私にはどうにも不可解であった。よりプロフェッショナルなステージを作ることも可能であったはずなのに、それをしなかったのは単に予算が足りなかったからだけなのだろうか。

釈然としない気持ちを抱えながら、何故このようなステージを決行したのか考えていたら思い出したのが、「俺はこれからも間違いを犯し続けるのだろう」というニールの言葉。過去の様々な作品において、この人はこれ以上何も必要ないと言い切れる完成度を誇る作品を作ったことは、この長いキャリアを振り返ってもほとんど見当たらない。もちろん常に一定のクオリティは保っているのだが、創作意欲の赴くままに勢いで作り上げることの多いニールは完成度云々よりも思いついたら即実行の人なのだ。武骨と言えばあまりにも武骨。しかしそれ故多作であるし、錆びつくこともないのがロックの幸福な時代から同じ姿勢を崩さないニールならではだ。それを思い出した後で日本人エキストラも多数含まれるステージを見ていたら、これが2003年にニールがやりたかったことであり、実にニールらしいショウなのだと納得した。

念のため書いておくが、『GREENDALE』はここ数年の作品の中では私は最も気に入っており、ライヴにおいてもクレイジー・ホースの演奏はタイトだし、ニールの声もよく出ていたし、その点では満足のいくものであった。ただあの演劇パートのお粗末さは否めなかったのも事実で、それがニールの言う「間違い」に該当するとの認識が本人にあるかどうかは分からないが、私には「ああ、またやっちゃったか」と思えるものだった。しかしそれこそが彼の真骨頂でもあるのだ。

1時間半ほどの第一部に続いての第二部はクレイジー・ホースとの往年の名曲を大盤振る舞い。ファン心理としてはこっちを楽しみにしていた人が圧倒的に多いのは無理もないところで、最初の「HEY,HEY,MY,MY」から会場のテンションも最高潮。「ALL ALONG THE WATCHTOWER」(これにはびっくり)、「POWDER FINGER」、「LOVE AND ONLY LOVE」、アンコールの「ROCKIN' IN THE FREE WORLD」まで約1時間、歪み放しの轟音ギターを弾きまくり、ライヴは終了。欲を言えばもっと大きな音でも良かったのだが、クレイジー・ホースを従えた時に期待されるニール・ヤングのステージをきっちり見せてくれたのはファン・サービスとして有り難く受け止めておこう。