Bob Dylan@青海Zepp Tokyo



 9年ぶりのボブ・ディランの来日公演を見た。さすがディラン、最高!感動!ロックンロール!!……という感想で終わることができたらどんなに楽だろうか。いや、退屈なライヴだったとは思わない。ショウとして単純に楽しんだとは言い難いということ。一体これは何だったのだろうかと帰る道々考え、ライヴが終了して5時間以上経過した今ももやもやしたものが頭の中に渦巻いている。結論めいたことは導き出せそうにも無いが、書いているうちに何か閃くかもと思いつつ、キーを打っている次第だ。
 94年の来日以降、私は日本ツアーの度にせっせとディランを見に行っており、トータルで見た回数は10回ぐらいになる。アルバムもひと通り揃えている。熱狂的なとまでは言えないものの、ファンであるとは自負している。しかし今日のライヴを見て、ディランという人が何であるのか、ますます分からなくなってしまった。
 御大を支えるバンドメンバーはTony Garnier(b.)、George Recile(ds.)、Stu Kimball(g.)、Donnie Herron(steel g.他)、Charlie Sexton(g.)。チャーリー・セクストンは昨年秋からのメンバーだが、以前4年ほどディランのバックを務めた経験がある。前回2001年の来日時も彼がギターを弾いていた。セクストン以外のメンバーはここ5年ぐらい不動。普通に考えれば気心知れた面子というところ。
 ライヴはほぼ定刻通り、「Memphis Blues Again」で始まった。ディランはステージ向かって右側に設置されたキーボードを弾きながら歌う。これは予め伝えられていた通りだ。センター・マイクまで出てきて歌うことは4〜5回あったが、ギターを抱えたのは1曲のみだった。
 他のメンバーはそのディランを囲むように配置され、皆が観客ではなくディランの方を向いて演奏。曲のアレンジ、構成はきっちり決められておらず、御大のさじ加減でどうにでも変わるからだろう。ジャム・スタイルと言えばその通りなのだが、では一般的にジャムの肝であるインプロの交換と交感によるグルーヴの創出があるかというと、それは希薄。あくまでもディランのヴォーカルを聴かせることに主眼を置いたアンサンブルに過ぎず、メンバーはバッキングに徹していた。つまりバンドとしての一体感、躍動感を目指していないのだ。
 そもそもディランの歌を聴かせるために、この編成である必然性がよく分からない。リード・ギターのセクストンは曲毎にギターを持ち替えつつも、ステージのほぼ中央で所在無さげにうろうろしていることが多かった。それもそのはずで、彼のリードがフィーチャーされた曲は半分も無いのだ。これでは何のためにいるのか分からない。ディランから「弾け」のサインが出ないからだろうか。
 さらに分からないのはスティール・ギターのドニー・ヘロン。ディランのやや後ろに座っているのは確認できるものの、彼の弾く音はほとんど聴こえない。ミックスの加減が原因だったとしてもちょっと酷い。唯一彼の存在を感じたのは、ある曲でバンジョーの音が聴こえてきた時。あれ?誰が弾いてるんだ?と見回すと、ドニーだった。
 ステージの主役はディランであり、観客の大多数はディランを見に来ている。それは言わずもがななのだが、当のディランに馴染みの曲を聴かせる意思がどれ程あったのか疑問。少なくとも観客に有名曲を堪能して喜んで帰ってもらおうなどという考えは微塵も感じられなかった。今に始まったことではないとはいえ、主旋律の崩し方は尋常ではない。歳を考えれば声域が狭まっているのは無理もないだろうし、ディランがラウンジ・シンガーのように美声で情感豊かに歌うとも思わない。美メロの多いディラン・ソングをオリジナルのまま歌うことに過大に期待しているつもりはない。にしてもだ、「It Ain't Me, Babe」のようなキラー・チューンを原形を止めないほど変えてしまうのは何故だ。私はワンコーラスが終わるころまで「It Ain't Me, Babe」とは気付かなかったぞ。サビの「♪No,No,No」をカットしてしまっていたから、観客の合唱も起きなかった。
 また「Most Likely You Go Your Way」では、レコードで聴けるあのリフを使わず、ハーモニカで別のフレーズを入れる始末。アレンジを加えるというより、曲を破壊していると言った方が良い。
 曲名は忘れてしまったが、後半演奏した曲でディランがスタッカートでキーボードのリフを入れる曲があった。ほとんどミニマルと言ってもいいそのリフに合わせ、スチュワート・キンボールがギターのカッティングを刻みだした途端、ディランはリフを止めてしまった。一体何をしたいのだ(笑)。バンドに盛り立てられることすら気に入らないのだろうか。
 ディランは68歳になった今も現役のアーティストであって、懐メロショウをやりに来たのではないと見るのは簡単だ。しかしオリジナル通りに演奏しないことが、イコール現役感と判断するのは早計なのではないだろうか。アルバム『Modern Times』がチャートで1位を獲得したのは記憶に新しいではないかという意見もあろう。しかしあれは「ディランの」アルバムだったからヒットしたのであって、収録されていた音楽が大衆性を獲得した結果ではない。事実、『Modern Times』のような音楽でチャートを席巻した例はディラン以外に見当たらない。
 この日会場が最も沸いた瞬間が「Mr. Tambourine Man」をオリジナルのメロディーで歌いだした時だったことぐらい、ディラン自身も気付いているはずだ。あたかもストーンズのように、往年の曲をそのまま演奏する2時間の方が客受けは良いだろうし、商業的にも成功するはずだ。しかしディランはそうしない。それなのにロックンロールバンドとしては噛み合っていないアンサンブルのまま、今日もツアーは続く。
 ノスタルジーを共有するためではないのに、40年前の曲を演奏する理由とは。それをディラン自身に尋ねてみたいのだが、残念ながらその機会は訪れそうに無い。思えばディランはいつでも明快な答えを用意してくれなかった。「答えは風に舞っている」とか「それは僕じゃないよ」とか、どうとでも解釈できることを言って聴く者を煙に巻いてきた。
 これを書きつつ、ぼんやりと浮かび上がってきたのはディランの辞書には「諸行無常」という仏教用語が存在するのではないかという仮説だ。あらゆる事象は移ろいゆくという悟りを開いた姿がディランなのではないか?分からない。分からないことがディランの本懐なのか?私はディランのことが分からないまま死んでしまうのだろうか?